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無題

 部屋を漂うラベンダーの匂いに少女はピクリと眉を顰めた。
「気に入らない?」
 青年は苦みを含んだ微笑みを浮かべると、蝋燭の火を手で扇いで消した。そしてカルテを片手に、向かいに座る少女を見やる。
 礼儀正しく両手を組んで膝の上に置き、まっすぐに青年を見つめる少女の瞳の奥。そこに住まう住人たちを想像して、青年はいよいよ苦笑を浮かべた。
「今日はここまでにしよう。教室に戻っていいよ」
 青年が優しげな声でそう言うと、少女は静かながらも疲れたようにため息を吐いた。そうして顎を引くと無言のまま立ち上がる。
 白いソックスに赤いエナメルの靴。印象的な空色のエプロンドレスではなく規定の制服に身を包んでいるが、彼女は紛れもなくアリスだった。
「それじゃ……失礼します」
 頭を下げればさらりと柔らかな長い髪が流れ落ちる。その軌跡に、青年はまぶしそうに目を細めながら「またね」と再会を請うように声を投げた。
 少女の背中を音を立てて飲み込みんだ扉をしばらく見つめる。白いカーテンが揺れるのを目の端でとらえそちらを向けば、片側だけ閉まっている窓のガラスに青年の顔が映っていた。疲れが滲んだ表情に、思わず苦い笑みが零れる。
  残念だったね。
 青年の耳に自分の声が届く。けれど青年は唇を曲げただけで動かしていない。
  君の思惑はまたも失敗だ。
「うるせえよ」
 青年は笑みを消して自分の顔の映る窓ガラスを睨み付けた。
 窓ガラスに映る青年の顔は、柔和な笑みを浮かべている。
「俺は、まだ諦めていない」
  わかってるくせに。
  アリスはいまでもアリスの世界の中で生きている。
「そんなことはわかっている」
  それでも足掻くのかい?
「ああ、勿論」
 言い返す青年の言葉には固い意志が宿っている。静かにたゆたう夜の海のような黒い瞳で、青年は窓ガラスに映る青年を睨み付け、「……と、意気込むのもいいんだろうがな」と、気の抜けた声を出して笑った。
「やってもやっても無駄でも、俺はやり続けるしかない。これはアリスが望んだことだし、なにより俺が望んだことだ」
  すべてはアリスの望みのままに。
「そう、すべてはアリスの望みのまま。そして――」と、青年はそこで口を閉ざした。視線を窓ガラスに映る青年の顔から離し、そのまま少女を飲み込んだ扉へと向ければ、同時に鳴るノックの音。
「どうぞ」
「失礼します」
 声を返せば礼儀正しい挨拶と共に扉が開かれる。顔を覗かせたのは、ピンク色の髪の毛をした奇抜な男だった。ピンクと紫のボーダーのパーカーにブルーのジーンズというひどくラフな格好の男は、そんな派手な色の外見とは裏腹に不安げに眉を寄せて青年の近くへと足を進めた。そうしてさっきまで少女が座っていた椅子の横で立ち止まると、男は不安げな表情と寸分変わらない様子の声を発した。
「いまアリスとすれ違いました」
「うん」
「……相変わらずなんですね」
「うん」
「…………そうですか」
 男は一見して年齢がわからない。少年のように幼く見えるが、その疲弊したような表情は彼を老いた風にも見せる。そんな年齢不詳の男は、ため息を吐くとくるりと踵を返して一直線にいま入ってきたばかりの扉へと向かっていった。
 青年はふと、その背中を見て声をあげる。
「あ、そうだ」
「……なんですか?」
 男は足を止めて。ノブに手をかけたまま振り返った。
 長い前髪。ピンクと紫のボーダー。なのに男の口元には笑みがない。
「お前は、どうしてアリスに話しかけないんだ?」
「え?」
 なにを、といいたげに僅か首を傾げる仕草。飄々としたイメージとはかけ離れたその雰囲気は、少女のなかで男がどれほどまでに曲げられているか、というマイナスのイメージに繋がってしまう。存在を玩(もてあ)そばれている男に、同情するべきか、と青年は思った。
「なんですか?」
「いや、お前はアリスのことを心配しても、アリスに話しかけようとはしていないだろう。それが不思議に思えてしまって」
「ああ、そんなこと……」
 聞き飽きたとでも言うように男はかぶりをふった。そしてドアをあけて部屋を出る。
「俺はチェシャ猫ですからね。どこにでもいるけれど、どこにもいない――」そうして今度は男が隙間の向こうに飲み込まれていく。「――だから、どこにもいないんですよ」
 扉が閉まりきる音を聞いてから、青年は机の上にあるグラスを手に取った。6割ほどまで入った水が水面を波立たせながら青年の顔を映している。
「…………アリスに」
  僕らのアリスに。
 窓ガラスの向こうで柔和に微笑む青年と同じ顔を持つ誰かを見つめて、青年はグラスの中に入った水をあおった。


Tittle of "Real."
to be continued!
*****

次あたりおわります。


6日連続8連勤でした。
けーっこうしんどい。


寝ます。おやすみなさい。
 
 

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