アクロバティック・リストカット 「駄目だ!!」 私の脇をすり抜け、チェシャ猫の持っている箱の蓋を押し付けたのは赤く染まった手袋だった。さして大きくはないその手は、隙間から黒いもやを吐き出す箱の蓋を全力で押さえつけ、口を閉じさせようとしている。「駄目だ……これは、いけないんだ。アリス」 彼が私を振り返らずに言う。「君の望みはこんなことじゃ……ない…はずだ……」「そんなことはてめぇが決めることじゃない。アリスが決めることだ」 私の肩に置かれた純白の手袋。その先に続く褐色の肌。厳しい口調で吐いて捨てるその声は、蓋を閉めようとしている少年と同一にして異口(いく)。「てめぇの言葉だろう? ラビット、お前がいつも言っているじゃないか」 その言葉に白いウサギの耳を持つ少年は振り返った。 私の肩に置かれた手に僅かに力が込められる。 私をはさんだ二人は、まったく同じタイミングで、同じ声で言った。「「すべてはアリスの望みのままに」」 卵の殻を着た双子とは違う。 考えたら当たり前だ。彼らは双子なんかじゃない。白いウサギと黒い兎は、同一にして全く異なった存在だ。 この世界に相応しいのは白いウサギなのだろう。 けれど、じゃあ、どうして黒い兎は相応しくないのか。素敵にちぐはぐで奇怪な御伽噺のようなこの世界で、どうして混沌の象徴のような黒い兎は相応しくないのか。彼が三月の兎だから? 何故彼は三月の兎なんだろう? 狂っているから? 何故彼は狂っているのだろう? この狂った世界ほど、彼に相応しい場所などないだろうに。「アリス」 地獄の業火に焼かれる罪人の悲鳴のような声で名前を呼ばれた。 私は、一歩、踏み出す。 肩から手が離れた。 また、一歩、踏み出す。 白ウサギはいつもの柔和な笑みを消して、近づく私に怯えるような視線を投げかける。 なにが怖いの? そう尋ねたかった。 私が怖いの? そう問いたかった。 それなのに私は、自分の心から湧き上がるその疑問を黙殺した。なんとなく、だけれど想像がついたから。 蓋を押さえる白ウサギの手をそっと握る。彼はなにも言わずに私の動きに従った。「ごめんなさい」 私がそう言うと、白ウサギは裏切られたとでもいうように顔を歪ませ、あきらめたように瞳を伏せた。そうして一筋涙を流すとその場に膝をついた。そのまま波打つ地面に倒れこむ。 ぎゅっと目をつぶると、私の頬にも涙が歩いた。ごめんなさい。ごめんなさい。そう心の中でつぶやきながら唇を噛む。意識を失った白ウサギは、赤く染まった腹と手をしていても、その耳はやはり白かった。その白さが眩しかった。 ふと、褐色の肌をした兎が少年の傍らに腰を下ろす。そして濁った目で私を見上げ、にやにやとした笑みを浮かべた。「コイツ、喰っていいか?」 デリカシーの欠片もない飄々とした声に、私は静かに首を振った。「なら、アリス。お前の――アリスの望むままに」 立ち上がったブラック・ラビットは白ウサギのするように優雅に腰を折り、開いた手のひらを上に向けて私を箱へと導いた。 濁った瞳はすべての色と混ぜ合わせた混沌の闇色できているはずなのに、歓喜を浮かべている。「アリス」 聞こえた声に振り返る。「いいのかい?」 女王が、私に尋ねた。「……いいの」 顎を引いて見せて、私は箱に向きなおる。 そっと箱の蓋に指を滑らせ、その口を開いた。 中になにが入ってるかなんて、知ってる。 否。 本当は知らなかった。忘れていたのだから。 すべて忘れていた。全部自分で望んで忘れていた。 箱を沈めたのも、鍵をかけたのも、すべての始まりは私だったということを。 Tittle of "Alice's box opens. "to be continude...?*****あとちょっと・・・・かな?創作環境作りをちまちま進めています。休み欲しいです。 [0回]PR