哀しき妄言 ただの呟きですだー。 なにかをなしている人が好きです。自我が強い人はなにかに打ち込み、努力し、頑張っている人が多いように感じる。きっと確固とした目標とか未来のビジョンみたいなのがあるのだろうなと思う。こないだそんな感じのことを考えていたら、そういえば僕は「なりたい自分」というものがないことに気づいた。等身大の自分大好きです。でもそれがいままで作り上げた自分の歴史の上に成り立つ諦めなのか、たんに変化を拒んでいるのか、純粋にスイーツ(笑)のごとき甘い思考回路から成り立っているのかはわからない。おそらく2番目が有力だけども。そういえば昔から変化が苦手だったように思う。小学校のときは中学校にあがるのがなんか嫌で、中学校のときは高校へ進むのがなんか嫌で、高校のときは大学等もしくは社会に出るのがなんか嫌だったなぁと。まあその「なんか嫌」レベルはたんに「勉強したくねー」ってレベルだからそんな拒んでたわけでもないし、実際進んでいるのですが。まあ、それはおいておくとして。変化っていうのをいまだに拒んでいる理由の最大の要因として、きっと失敗するのが嫌なんだろうなーとは思う。誰だって最初は失敗するし、失敗からなにかを得て成長し、またかんがえるものだとは知っている。失敗しない人なんかいないし、失敗しない人は失敗しないことこそが失敗しているような気もする。(可愛げがないとか言われるだろうし。)だからイコール失敗しない人なんていないのだ。だからといって、失敗して怒られてそれが嬉しい人なんているわけがない。失敗したぶん他人に迷惑かかるし、なによりその分の時間を自分のために使ってもらうのが嫌なんだろうなー。てかどんだけ自分を貶めているんだろうと思いつつ、その分無意味な過大評価を自分に科してバランスをとっているのでまあ不格好な釣り合いだけはとれているのだけども。他人が他人のためになにかするのは当たり前なのになぁ。見返りを求めようとも求めないだろう(ということは絶対にないと思うのでそういう人はきっと見返りを求めなくとも自己満足という見返りを得ているはず)とも、他人が他人になにかを施すのは社会世界では当たり前だし当然なんだけど、こう、普段を違う施しを受けると戸惑う。怖いっすよ、正直なんか、なんで自分のためにってぶっちゃけ思う。嬉しいんだけどなー。過度は施しは裏があるように思えるのだろうか。確実にその相手にもよるんだけど。今はどうかわからないけど、以前の思考回路で、「自分の言動が他人に影響を及ぼすのが怖い」っていうのがあったけど、あれも変化を」恐れるが故なのだろうか。他人が他人のためになにかをする、てのは善であれ悪であれ人が集団で暮らしていると自然に起こり得る現象であって、むしろ回避することのほうが困難なのに。・・・なにが言いたいのかわからなくなってきた。ああ、じゃあこうしよう。され竜真説8巻の帯を見直してみると全日本暗黒ライトノベル連合総長のブログにあったように「この本には暴力~」って注意書きがしてあってびっくりしたのです。それがいたかったということで。 [0回]PR