最初から最終まで家庭で紡ぐ仮定の話。 たとえば、僕が話を書くことで世界の敵になったとして。この世界で誰一人として僕の書いたものを喜んだり興味を示したりするどころか、1人の例外もなく批判したとして。そうなったら僕はそれでも話を書き続けるのだろうか。と考える。思い起こしてみればいま現在の僕が文字を連ねるのには、「言いたいけど言えないことを自己主張したい」という思惑が混在しているように思える。「ありがとう」を言えない辛さを昇華させようとしている気がしてならない。だから言葉を飛ばすために書いているのかも、と想像してみた。(わからない気持ちは想像する他ないので)たとえば紙飛行機を折るような感じで、話を作る。ほら、とんでけ。ぶーん。だからその自己主張を、部屋の端っこの端、涙一滴分すらもないような大きさの主張すら、伝わることがないのだと。もしもそうわかってしまったら、はたして僕はそうするんだろう。ま、わからないから、その日の自分に任せたらいいか。とりあえずおやすみなさい。そういや昨日(金曜日)のバイトの帰りに変質者に遭いました。ものかわりのいい人ばっかてまだだいじょうぶです。 [0回]PR