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祭の準備は時間がかかる

どうもこんばんは。
今日もまた昼から行きました翼です。しかもまた3限は休講でした。
これで2週連続win基礎をサボってしまいました。ヤバイ。


そんなわけで学校に行ったにもかかわらず授業のなかった僕は、軽音とゴス&服飾同好会の明日の準備に行ってきました。

んー本当に準備、としか言いようが無いのですが、とにかく僕のテンションがやや高めだったのは記しておきます。


そして明日は8時に集合らしい。
ささと風呂は行って寝まーす。

おやすみなさい。


















































ハロウィン小説そろそろ終盤(と言っておいて続くか不明)第六目。




***********

 たとえばその行為を「自傷行為」と呼ぶのか「自殺未遂」と呼ぶのか、それとも「自殺」とか「一度死んだ」と表現するのかは人それぞれだ。だいたい、死そのものが概念であり思想であり、人間の生命活動が停止した状態がイコールその単語であるために、だからその行為は人によって認識が違ってくる。
 どこかの誰かが「死後の世界はあるんです」と言っていた。ならばそれを見たことのない自分はまだ「死んで」はいないのだろうか。しかし死後の世界を見たという人は、死んでから死後の世界を見たのであり、死の境界線ギリギリのラインで――つまり未だ死んでいない状態で死後の世界を見ているのだから、はてさて本当に死後の世界なのかどうか疑わしいものである。
 まあ死後の世界はさておき、無意味に持論を奮ったところで、さて自分はどうなのかと問われると言葉に詰まってしまう。私自身がその行為の経験者であり常習者である限り、生きている以上必ず誰かが口にするその質問。
 清潔そうなベットでその問いを聞くたびに、私は無意味に微笑んでしまう。いつか誰かが「切ない顔をするんだね」と揶揄した微笑みで。
 <不死人>、<死人>、<生きるゾンビ>……別称や差別用語は様々だが、DeadPerson、通称DPという種族は首を切り落とされたり、脳や心臓を破壊されない限りはたとえダンプカーに轢かれても死ぬことは無い。それだけを聞くとゾンビとあまり変わらないように思えるけれど、ゾンビは人間ではない。禁呪により甦った死者――つまりゾンビと呼ばれるものは、生前の姿をした動く人形のようなもので意思も記憶も言葉すらも持ち合わせていない。友達の言葉を借りるとすれば、「DPはただ死ににくい人間なだけだ」。だけれど、その友達の台詞も最適とはいえない。ただの死ににくい人間が、胴体を切断されてなお生きているはずがないのだから。
 つまるところ、DeadPersonについての表現は至極難解なのである。
 本題に戻そう。
 久方ぶりに尋ねてきた友人は、相変わらずの半透明な姿でふわふわと病室のなかを漂っている。ときどきハナが持ってきた鬼百合の香りを嗅いでは「ハナの花~」なんて駄洒落を言って、幽霊なのに私の向いた林檎を食べながら「やっぱりうさぎさんだよね」と楽しそうに呟く。
「リリスって刃物使うの上手いよね」
「そうかなぁ」
「裁縫なんか大得意だし」
「そんなことないよ」
「謙遜しないでよ。リリスってほんと手先器用なんだし。まるでさ――」
 ――まるで私のこと殺したときみたい。
 ジネヴラは喜々としてそう言った。その台詞には憎しみも痛みも皮肉も一切含まれず、むしろ窓の外、遠くを見つめる瞳は懐しさに彩られている。
「許してないの? 私のこと」
 元より意味のない質問は、DPの定義を訊ねることと似ている。今更、とか。どうして今になって、なんて前置き、更々無意味だ。ジネヴラはそんなことはとうに分かりきっているので、微笑ひとつにため息ひとつ、嘲るような笑みを向けてくれた。
「許すとか許さないとか、そういうこと?」
「……でも、貴女は事故じゃないって言うんでしょう?」
「あれを故意だと言わずに事故だって言い切るアンタの性格を尊敬するわ」
「事故なんて言ってないわ」
 と、私は口を尖らせた。「医療事故だって言ったのに」。ジネヴラが笑った。
 DPは思春期の只中である十六歳を境に、DPの特徴でともいえる極度の自傷行為に走る割合が急激に増加するのだという統計が出ている。それにそもそもあまり知られていないが、DPというのは第一反抗期を過ぎると徐々に――本人でもわからないくらい本当に徐々に――痛みへの反応が薄れていくのだという。鈍感。それ自体はときにとても大きな罪となる。自傷に抵抗がなくなるのも鈍感からくるものなのかな、なんて考えると、痛くないというのはそのままの意味で不幸中の幸いかもしれない。――っと、話が逸れた。
 私達が聞いた統計の話では、実に、ほぼ100%のDPの少年少女が自傷行為に走るのだという。だからこそDP弾圧に精を出す頭の悪い大人に危険視されることも多い。いつか他人にその狂気を向けるのだと。だから先手を打ってしまえ、ということで、十六歳になった少年少女にはその衝動を抑える為の抑制剤が無料で……否、強制的に配布される。向精神薬や鎮静催眠薬といったいかにもメンヘルさんが好みそうな代物が、各自保護者の監視下の下で私達の喉を下っていくのだ。
 ”ほぼ100%”。その統計がどれほど確実なものなのか知らないけれど、だからこそ”ほぼ100%”イコール”100%に満たない”という事実こそが重要だった。ここで構成される公式。”ほぼ100%”イコール”100%に満たない”イコール”100%ではない”イコール……”すべてではない”。
 そんな、確実とか絶対なんて言葉が図々しい不確かな結果をもとに、私達は物騒な化合物を体内に取り込まなければならない。
それが運命だと言う医者がいたらしいけれど、その医者は同じくDPである親戚が出会い頭に殴り飛ばしていたそうな。当時「運命なんてクソ食らえ」、と叫んだ彼は、いまでは立派な外科部長になっている。まったく、運命なんてクソ食らえ、である。本当に。配布された薬の副作用で、自傷行為に走らなかったかもしれないDPの子供達が自傷行為に走っていることもあると、どこかの学者が論文で書いていた。薬のせいで自傷行為に走ってしまった子供がいるかどうか、薬を飲まずに自傷行為に走らなかった子供を私は知らないのでなんともいえないが、どうも薬のせいでそれまでの自傷行為がさらに悪化したケースがあるのは本当らしい。まったく、運命なんて。
「薬のせいにするんだ?」
「私のせいにするの?」
 私が、当時うつ病だった親友を殺したのは、無料で強制的に配布された向精神薬を摂り続けてしばらく経ってからだった。パニック障害に陥ったタイミングも、その場に誰もいなかったことも、私自身うつに近い精神状態だったことも、すべてが要因であり、すべてが言い訳だ。
 私がジネヴラを殺したことは、真実ではないにしろ、まぎれもない現実なのだから。
 そうして、そのときに一度、私も死んだのだ。
「まあ、なんにしろ」
「なんにしろ、ね」
 ジネヴラはゴーストとなっていま私の隣にいるし、私は何度死のうとしても死なない人間。
 なんにしろ、無意味な討論なのだ。


fin
**************

おっそろしく中身のない話ですみません(汗
薬とか差別とかそういうのをテーマに書こうとしたのですが、見事に失敗。だめだ、やっぱ遅筆だ、僕は。


明日から学祭~♪
楽しんできます!

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